錯聴と音楽 / ソルフェージュでは何故、声に出して歌うか

錯聴と音楽

錯視とは実際とは違って見えることだが、これは生きるために長い間かかって獲得してきた脳の能力の裏返しといえる。
視野検査というのがあって、仕事で関わったことがある。視野が欠けていないかをみる検査だが、正常な検査結果でも必ず見えていない部分がある。視神経が一箇所に集まる部分、盲点である。脳はこの部分を脳内処理で補っている。脳は網膜に映った平面画像をも脳内処理で立体画像にしている。目からの情報が大きなエネルギーを消耗する所以でもある。

錯視ほど認知はないが、錯聴という現象も報告されている。
パーティーなどで、どんなに周りがうるさくても相手のことが聞き取れる「カクテルパーティー現象」は錯聴の典型例である。聞きたくないことが聞こえない「勝手耳」は聞こえないフリをしているだけだが、長年言われ続けると本当に聞こえなくなったりする便利な能力でもある。気にすれば聞こえ、気にしなければ聞こえない、ということは日常生活でもよく体験することで、これは耳から入ってきた音が大脳で処理されて聞こえていることを意味する。

音楽については、音楽耳を持った人とそうでない人は聞こえ方が違うはずである。音が分かるとか理解が違うだけという考えもあると思うが、昔良く聞いたCDを今聞き返してみると違うCDのように新鮮に感じたりする。絶対音感の人と相対音感の人でも違うはず。そう考えてみると、音楽的に耳が進化すればするほど、その人が作る音楽はそれを聞く大衆とはだんだん離れていくのではという考えが浮かんでくる。しかし、進化しないとつまらない音楽しかできないのも事実である。

ソルフェージュでは何故、声に出して歌うか

音が聞こえるまでに脳内処理がされていて、人によって、または状況によって聞こえ方が多少なりとも違っているということを書いた。こういう能力は、視覚の場合と異なり、その人が生まれてから獲得してきたものであろう。

イヤー・トレーニングの授業で試験があるが、どうしても2音のインターバルが聞き取れない。楽譜ソフトでたくさんのインターバルを作り、聞き取る練習を必死でした。パーフェクトと自信をもって試験に臨んだが結果は惨憺たるものだった。その原因は楽譜ソフトのピアノ音源と教室のデジタルピアノの音色がまったく違っていたからであった。その時、インターバルよりもサウンドの違いでインターバルを覚えていたのかと気がついた。

CDを聞くだけで、または音当てをするだけでゲーム感覚で音感が身につく、というような教材があるとする。それらは自分の実力を試すには使えるかもしれない。しかし、何回か再生して当たるようになったとしても、他の音源ではどうだろうか? ある程度の効果はあるかもしれないが、上のような理由で、効率の良い方法とは思えない。

自分の楽器ではピッチが分かっても、自分が演奏したことのない楽器のそれは分かり難い。多分、多くの人は、音が低い上にやたらと倍音が多いベースのピッチは分かり辛いであろう。私自身サックスの音は聴き取りにくい。

どうしたらいいのだろうか? 自分の楽器で同じことをプレイしてみるのが分かりやすいかもしれないが、いつもそれがあるとは限らない。
同じ音を自分の声で歌ってみることは手軽で、いつでも身近なリファレンスとなる。ソルフェージュで歌うことを続けていると頭の中で無音で歌うことにも慣れて、更には、時間がかかると思うけど、ソルフェージュで聞こえてくることも可能となる。

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